わたしはきっと一生金原ひとみを読み続ける。

恋愛が強制停止させられて、はや1週間。

しあわせ絶頂からのジェットコースターみたいな、はたまた生理前の情緒不安定みたいな、そんなテンションのこの恋愛を私はいつまで続けていくのだろうか、と思いながらもなんとか生活しております。

 

気分が沈んでいる時は、普段ひとりで楽しめるはずの趣味が楽しめなくなったりするので

映画鑑賞は、リビングで母とNetflix鑑賞会に切り替えてみたりしている。

これがどうにも心が安定するので、いい。

自分ひとりで選ぶ映画は割と重ためのテーマのものを自然と選びがちだけど、母が選ぶ映画は楽しそうなもの、内容がわかりやすくテンポのいいものが多い気がする。

しばらくこの習慣が続けばいいな、と密かに思っている。

 

恋愛がうまくいかない私は

お仕事の人間関係でも、今それなりに悩んでいる。

否、悩んでいるというより怒りに近い感情かもしれない。

わたしが働く職場は今現在スタッフが100%女性の職場で、まぁまぁ何もなくてもそれなりにめんどくさいことが多い。

気を遣い、気を遣われ、不愉快にならない言葉遣いをこころがけながら

お買い物にくる客にも、そしてスタッフにも少しずつ気力を持っていかれる。

そんな中での、人間関係のこじれ。

もう、この文面だけでもややこしいしめんどくさい。

そんな物に巻き込まれた私は怒りを鎮めながら、ストレス3割増しで最近働いている。

 

この間は怒りのピークが来そうになったのを、図書館に行って読み切れるかどうかは関係なく好きな本を借りるという行為でなんとか気持ちを整えた。

 

そんな中で借りた本の中に、金原ひとみの本があった。数年前の出版みたいだけれど、きっと未読のもの。

彼女の小説はなぜかすべて読まないといけないと思っている。

 

蛇にピアスを初めて読んだのは高校の図書館だった。

すぐに読み切った私はそこから金原ひとみという人が気になって仕方なくなった。

彼女が書く作品の中の当時の私が知らない世界。でもどこかで感じるシンパシー。あと、憧れ。

その当時、国語の授業でクラス全員が一冊ずつ、小説を勧め合うという授業があった。

わたしはなにも躊躇わず、蛇にピアスを勧めたけれど先生にも、同級生にも、あまりいい反応はもらえなかった。そんな記憶がある。

 

そんなことがあったからなのか、金原ひとみ。というワードだけで未だに私はすぐに反応してしまう癖がある。

最近だとストロングゼロが掲載された雑誌の特集ニュースとか。

彼女の小説に出てくる主人公を私は毎回金原ひとみ自身に当てはめて読んでいる。

そして、また勝手に共感してシンパシーを感じるのである。

 

きっと、ずっとファンなのだろう。

彼女の文章の虜なんだろうな、と思っている。

 

小説や活字を読むときの目の上下活動がなくなると、脳が馬鹿になるんだよ。

10年以上前に好きだった彼が笑いながら私に言っていたな。

 

でも、わたしはスプリットタンにはしない。

 

幸せとは、なにもない毎日を過ごすこと。

 

数年ぶりに連絡をとった、いつかの大好きだった人は今の自分の生活をすべて終わらせてもいいかな。たいせつなものや人を手放したとしても、もうしんどいんだよ。と言っていた。

 

私からみると、彼の人生は彼自身が努力をして順風満帆に進めている。そして、謳歌しているように見えていた。

 

でも、わたしは彼じゃないからわからない。

数日前に今から出かけると言ったきり連絡はない。

彼はどうしているのだろう。

 

出会いから数えると10年以上、彼とは携帯電話の上でお互いの日常を報告しあってきた。

傷付くのが怖いから、お互いが距離を測り合うようなやり取りしかできない。そんな仲だ。

 

だから、今回も私はきっと傷付かない方を選ぶ。

むきだしてぶつかって行ったところで、きっともうそれは綺麗事にしか聞こえないだろうから。

 

 

何者にもなれなくても人生はつづく。

 

完全に夏バテしている。

気休め程度に梅干しを食べ始めたけれど、普段から好きなものしか食べないので一日ひとつぶ梅干しを食べ切るのもなかなか難しい。

 

最近の生活は

図書館に通う。

メルカリ便をおくる。

サブスクを見る。

ビーズですきなものをつくる。

 

これを繰り返している。

そして、お仕事。

 

図書館に通っていると、学生が一気に増えた印象があって

あぁ、夏休みが来たんだなぁ。と実感する。

課題図書を探しに来たのか

冷房求めて入館したのか

理由は十人十色だけれど、何はともあれ

いつも大体決まった人数しかいなかった図書館に人が増えたことで、私は季節を実感している。

 

学生の頃よく通っていた図書館に昨日久しぶりに本を探しに行った。

ビデオテープの貸し出しと閲覧が終わってしまっていたので、閲覧スペースがなくなって広々とした図書館になっていた。

 

当時私は今よりももっと多趣味で好奇心旺盛だった。

わからないことはなんでも知りたかったし

自分の好きなものを増やせば

いつか何者かになれるのではないかと思い

色んな本を読み、今よりももっと社交的で行動的であった。

結局今のところ何者にもなれずに、猫になりたいなどと言いながらマイペースライフを送っているのだけれど、あの頃は何者かにならないと生きれないのではないかという謎の焦りがあった。

社会に馴染める自信は当時からなくて、それなら何者かにならなければ、と常々思っていた。

 

大丈夫。

生きてます。

 

今はあの頃よりもはるかに色んなことが可能な社会になりつつあるし、私はそれに未だに馴染めないけれどとりあえず生きれてるし無問題だよ。

何者かになることを諦めたわけじゃないけれど、自分を大切にしないと何者にもなれないんだと少しわかったので無理せず毎日を消費していくことに尽くすのもありなんじゃないかしら。と思っている。

 

とりあえず今は朝食に食べた梅干しの残りを食べ切るのが目標だ。

花束みたいじゃなくたって。

 

妙な睡魔に襲われる日々が続いた。

その睡魔に出会すと逃げられず、ひたすら一日中ひるねしてしまうのだ。

ホラー映画の書き出しみたいだけど、本当のはなし。

そしてそれには決して抗えない。

とりあえず眠りまくった。

 

そして、久しぶりにTSUTAYAに行って

観たかった映画を借りた。

最近新しい映画と出会うことをなんとなーく避けていた私が手を出したのが

花束みたいな恋をした。

ずっとずっと観たかったけれど、予告だけで胸がぎゅぎゅぎゅーってなってこれがなんの感情なのかわからず苦しくなるのだ。

でも、観た。

観切った。

邦画の良さや、リアルな言葉たち、華やかなキャストの華やかさを消す演技に

やっぱりわたしの邦画の好きな理由はここにあるんだなぁ。とおもった。

わかりやすい、センチメンタルが大好きなのだ。

 

洋画も邦画も大好きだけれど

好き嫌いや先入観なく、もっともっとたくさんの映画を観たいと思った。

 

あと、本も。アニメも。

やりたいことは溢れすぎていて

きっとこれは一生そうなんやろうなぁと

しみじみ実感できた最近でした。

叶わないこともあるし、

未来のことは今日もこわいけど、

でもなんとか。だよ。

 

いろんなものに触れて、もっと優しい人間になりたい。

悲しみの向こう側には何がありますか。

 

 

気持ちの確認を言葉で欲しがったら

矛盾を突きつけられた。

とくに自分のなかでは気にもならない

気にしたところでお互いさまだと思っていた事柄を、彼は私の大きな矛盾だとなじった。

しようと思えば出来た攻撃を

私はしたくなかった。

傷つくのは嫌だけど、無意識のうちに彼を傷つけている自分がいちばん嫌だった。

こんな小さなことを気にされるくらい、想われていたんだと思った。

彼にとって私はお節介な女でしかないと思っていたから意外だった。

 

じゃあね。

 

と、連絡がきてからも

文章を打ち続けた。

自分の素直な気持ちを涙を垂れ流して嗚咽しながらひたすらに。

返信は昨日まで。

今日は既読すらつかない。

 

今の私の生活を維持できているのは彼の存在があまりにも大きすぎて、私はこれからどうやっていこうかと思っている。

あの、連絡のなかった期間も私はからっぽで、思い出すことは彼のことばかりで気を緩めたらすぐ泣いていた。

今回はもう、本当にだめかもしれない。

そう思うと不安と恐怖と寂しさが一気に押し寄せてくる。

どうせ、次の恋をする。

そんな道があるのかもしれないけれど

私は彼と笑い合いたいのだ。

 

既読のつかないLINE。

 

どうしたらいいのだろう。

 

 

不眠症心配性過眠症。

 

今日は久しぶりに献血に行った。

体内に針を刺す瞬間の緊張と、あれ。思ったより痛くないやん。と感じる頃には血液がさぁぁぁぁっと管を通っていくあの感覚が好きで

献血カードまで作るほど、わたしは献血がすきだ。

 

今日は何やら自治体の方達が、抽選会を開いてくれていてガラガラを回したらお米を2キロもいただいた。

献血、至れり尽せりである。

 

 

そんな私は、自分の体調や将来のことには無頓着無計画もいいところなのに

自分と関わる人にはたまらなく心配性を発揮してしまう。

自分ひとりの散歩なら携帯と図書カードだけ持ってふらりと出かけるくせに、そこに誰かとの予定となればハンカチや飲み物、しまいにはどこに遠足行きますねんってくらい鞄の中身をパンパンにしてしまう。

格好つけてるのだろうか。

そんなつもりはないのだが。

 

まず、一緒にいるひとに迷惑をかけたくない。というのと、もしものとき(そのもしもの時は何年かに一回くらいしか遭遇しないのだが)のための備えをしてしまうのだ。

基本的にくすり屋さんを開けるくらいには痛み止め系は持ち歩いている。

そして、関西のおばちゃん化阻止計画により飴は絶対持ち歩かない。

 

やっぱり格好つけてるのだろうか。

 

昔から旅行に行く時も、学校行事でも、友達の2倍の大きさの鞄を持っていたような気がする。

そして使うものは大体その中の3分の1くらい。

きっと私の部屋や鞄をこんまりさんがみたら発狂するだろう。だって詰め込んでるときはちゃんとときめいてるんだもん。

 

さいきん心配性なところをわかりやすく行動に移した自分に後から思い出して泣きそうなくらい恥ずかしかったことがある。

 

体調が悪い、食欲はないけど中華食べる(なんでやねん)と連絡してきた彼とやりとりしていたLINEが途切れて

気にしないふりを出来なくなった私は、もしかして彼が家の中で食事中倒れているのでは?!若しくは気持ち悪くなってトイレに駆け込んでそのまま倒れているのでは?!と心配になりパジャマのまま最寄りのスーパーに行き、the体調悪い人でも食べれそうなものをポイポイ選んで彼の家に向かってしまったのである。

 

家の前まできて、アポイントを取ってない!と気付き、そして彼の家には引っ掛けタイプのドアノブじゃないし、ポストは小さいし、そのまま置いてたら常温では傷みやすいものばかりを買ってしまった私はおそるおそるピンポンを押す。

 

すぐ出てきてくれたし

喜んでもらえたし(多分)

なんか、逆に招かれおもてなしされたしで

おだいじに〜、と言って家に帰ったらなんか色々間違えていたのでは??!となってしまった。

 

行動しているときは心配でたまらなくて羞恥心などないのだけど、ふと冷静になって振り返ると引きこもりたくなるほど恥ずかしい心配性エピソード。

 

もっと余裕のある大人になりたいものです。

 

 

 

 

 

 

不眠症心配性過眠症。

 

今日は私の誕生日でした。

やっぱりなんだか誕生日はそわそわして

おめでとうと言われるとうれしくなってしまう。

幼い頃から不眠症だった私だけど

昨日は珍しく誕生日カウントダウンまでに

あくびを3回もしてしまった。

 

記憶が正しければ小学5年生の頃から

不眠症の縁をなぞるような生活をして

こころの病気を抱えてからは

情けないほどの不眠症になってしまった。

 

眠れない夜は、とにかく長い。

朝なんかこのまま来ないんじゃないだろうか。と何度も考えてその度に、急な不安や過去のやらかしや、いきなり自分サミットを脳内で開催したりして悶々としてしまうのである。

そして疲れ切った頃にはもう起きないといけない。

学生時代、そんな日が多くて

常に脳内にはもう一人のわたしが腕を組んで、その日のわたしを何をいうでもなく監視しているのである。

 

監視も度を過ぎると攻撃になる。

なんでそんなことしてんだよ。

相手の子、あんたのこと嫌いだよ。

もう一人のわたしは、わたしよりもネガティブなのにものすごく攻撃的だ。

自分を守るためにはわたしはその子の助言を聞き入れるしかない場合が多くなる。

そして我慢我慢イライラを3日くらい繰り返すと

ふ、と記憶が途切れて

目が覚めた頃には

自分の中の自分がいなくなっている。

 

そして眠れないサイクルに戻るとまた彼女がわたしの部屋にやってくるのだ。

 

大人になったいまも、

眠れなければ本を読む、映画をみる、ゲームをする、やりたいことは山ほどあるけど

どれも一向に進まない。

そして無理矢理お酒を煽り、薬をいつもの倍にして記憶のシャットダウンまで脳みその指令に踊らされるのだ。

 

 

わたしと、不眠症との戦い方。

次は、心配性のはなし。